1.糖尿病のコントロール状態の確認
主治医を受診し、糖尿病のコントロール状態が海外勤務に適当か否か意見を聞く。
血糖コントロール状態の目安としては、空腹時血糖値120mg/dl以下で低血糖のないものを優コントロール、140mg/dl以下を良コントロール、170mg/dl以下を可コントロール、171mg/dl以上をコントロール不良とするとよい。血糖値は変動しやすいので、数回の測定値の変動幅からコントロール状態を判断する。
グリコヘモグロビンA1c(HbA1c)とフルクトサミンは血糖値よりも変動の少ない安定した指標である。血糖値が高いと、グリケーションという反応により血液中の蛋白質にブドウ糖が結合する。ヘモグロビンは赤血球中にあり、酸素を運ぶ赤色の蛋白だが、そのA1cという部分に糖が結合する。HbA1c値は、A1cの中に含まれる糖のパーセンテージである。HbA1cは過去1〜2カ月間の平均血糖値を反映するが、それは、赤血球の寿命約120日と関係する。正常値は4〜6%だが糖尿病では7%以下が望ましく、この状態が持続できれば合併症の発生ないし進行を阻止できることが最近の疫学調査で明らかにされている。
フルクトサミンは血清アルブミンに糖が結合したもので、過去1〜3週間の平均血糖値を反映する。正常値は205〜285μmol/1である。
コントロール不良の場合は、治療を強化し、良好な状態に安定しない限り、赴任を見合わせるべきである。
2.合併症の確認
糖尿病性網膜症、糖尿病性腎症、糖尿病性神経障害を糖尿病の三大合併症と呼ぶ。不完全な治療のまま5ないし10年経過する間に発生してくる。糖尿病は、ブドウ糖の利用を促進するインスリンのはたらきが不足しておこる代謝異常だが、そのためブドウ糖の一部は、インスリンを必要としない代謝経路にはいるようになる。そのようなルートは、通常は殆ど活動していないため、体内に代謝産物の異常な蓄積がおこる。また前述のように、高血糖により、ブドウ糖が体内の各種の蛋白と、グリケーションという異常反応で結合する。糖尿病性腎症と糖尿病性網膜症は、これらの異常による全身の血管系の障害のあらわれであり、神経におこった異常が糖尿病性神経障害である。これらは、早期であれば糖尿病の治療を正しくおこない、良好な状態を続けることにより改善するが、ある程度をこえて悪化したものは、進行を止めることも困難となる。グリコヘモグロビンA?cが血糖コントロールの指標であると同時に、これら合併症の進行を予測する目安となることについては前述した通りである。
1)糖尿病性網膜症
眼底網膜の細い血管が障害され血液成分が血管外に漏れやすくなる。良性の網膜症は、これらの変化が主として網膜の周辺部に発生するため、視力は殆ど障害されない。注意を要するのは悪性または増殖性網膜症と呼ばれるもので、それまで普通に見えていた視力が、硝子体出血や網膜剥離で突然失明することがある。赴任前には糖尿病専門の眼科医の受診が必要である。
2)糖尿病性腎症
腎臓は血液を濾過し老廃物を除去して血液を浄化する臓器である。血液を濾過する腎臓の細い血管が障害されると蛋白尿やむくみがおこり、高度になると血液を浄化する機能が低下して、尿毒症という危険な状態におちいる。血液中のクレアチニンと尿素窒素は老廃物の蓄積を示し、これらの上昇は腎機能の著しい障害を意味する。このような状態では海外勤務を断念せざるを得ない。
3)糖尿病性神経障害
全身の末梢神経の機能が異常をきたすため多様な症状をあらわす。たとえば足のしびれや痛みなどの知覚異常や眼筋麻痺、心臓や血管を調節する自律神経系の異常による起立性低血圧(立ちめくらがり)や心電図異常、皮膚の栄養神経の異常による足の神経性潰瘍が出来ることもある。知覚障害や神経麻痺は糖尿病コントロールの改善により、徐々に回復するが、海外赴任などのストレスにより、突然再発することもある。
4)動脈硬化症
糖代謝障害にともない、糖尿病では脂質代謝も異常となり、高脂血症がおこるので動脈硬化も進行しやすい。冠動脈硬化による狭心症と心筋梗塞は治療不完全な糖尿病の危険な合併症である。高血圧症を合併する場合は特に注意を要する。
冠動脈のほか、下肢の血管に閉塞性動脈硬化症がはじまると、200〜300メートル歩くだけで足が痛くて歩けなくなり、休むと回復するといった間歇性跛行がおこる。高度になると殆ど歩行不能となり更に虚血性懐疽では下肢の切断も必要となる。
血糖値のコントロールと共に、コレステロール、中性脂肪の値にも注意し、高血圧症を合併する場合には、血圧のコントロールも疎かにしてはならない。最近の疫学調査の結果から、糖尿病患者では血中総コレステロール値は200mg/dl以下、中性脂肪(トリグリセリド)は150mg/dl以下に抑えることが望ましいとされている。
5)白内障
高血糖の持続により、眼球の水晶体が混濁すると、視力障害がおこる。最近は手術で眼内レンズを挿入する治療が可能となったが、眼底が高度の網膜症でおかされている場合は、視力の回復は望めない。
3.一般健康状態の確認
海外勤務に先立ち、一般健康状態を、いわゆる人間ドックなどで確認する。出来れば歯科医にも受診し、むし歯や歯肉炎、歯槽膿漏などの歯周病についても検診を受けておく。
4.教育入院のすすめ
糖尿病専門の医療機関が設けている教育入院を体験することは、自分の糖尿病状態について認識を深め、更に、食事療法や運動療法、インスリン注射など、日己管理に必要な知識と技術を効率よく体得できるので、海外勤務に際し甚だ有益である。また、赴任を控え、外来治療ではコントロールがなかなか改善しなかったような場合でも、多くは1〜2週間の入院で良好な状態に達することができる。
5.血糖自己測定 self-monitoring of blood glucose(SMBG)
試験紙による尿糖の検査は簡便だが、血糖値との関係はかなり複雑で、コントロールの状態を正確に知るには限界がある。これにたいし、血糖自己測定は血液中のブドウ糖を簡単な測定器により自分で測り、コントロールの状態を身近かに確認する方法で、主としてインスリン注射をしている患者を対象として治療に導入されている。自宅や旅行中などいつでも簡単に血糖値を知ることが出来るので、インスリン治療以外でも、特に海外勤務の際は役立つことが多い。
6.紹介状の作成依頼
主治医から海外勤務に支障なしとの判断が得られたら、現地医療機関への紹介状の作成を依頼する。国内で転医する場合の紹介状は、診療情報提供書という形に統一されているが、海外への転医の場合は、これを英文で作成する必要がある。主治医は、多くの場合、自ら英文紹介状を作成してくれるが、多忙な医師にとって、それは必ずしも簡単なことではない。時には医師の作成した和文の紹介状を翻訳の専門機関に依頼しなければならないこともある。
医療の分野では、英語圏でなくとも、通常は英語が共通語として通用すると考えてよい。紹介状の内容について、処方薬が一般名で記載されていることに注意する必要がある。日本国内での医薬品の市販名は、海外では通用しないことが多い。
紹介状は2−3部コピーを作成しておくとよい。
7.治療薬、注射器等持参の準備
赴任したら現地医療機関の受診はできるだけ早い方がよいが、やむを得ず時を経過してしまうこともあるので、通常1〜3カ月分の必要な医薬品を持参するのが望ましい。通関の際、医薬品の持ち込みは、現地の医療行政により厳しく規制されているが、本人の病気治療に必要とする医薬品の2〜3カ月分程度であれば許可してもらえると考えてよい。但し医薬品の内容とそれらを治療に使用する病名等を記載した英文証明書を所持する必要がある。
インスリン注射液は5℃から30℃までの気温であれば安定しているので室温で保存してよい。但し、熱帯や寒冷地ではこの範囲を容易に超えてしまうので注意を要する。冷蔵庫に保存するのはよいが、注射液を凍結させてはならない。凍結するとインスリンの作用は大きく変化する。因に、航空機搭乗の際は、必ず手荷物として機内に持ち込み、チェックインで預けてはならない。上空で荷物宝の温度が下がると、注射液が凍結する恐れがある。
8.疾病証明の携行
日本糖尿病協会発行「糖尿病治療の手引き」(南江堂)の巻末に自分が糖尿病であることを示す英文のカードがとじてある。氏名、治療内容、連絡先等を記入するようになっているので主治医と相談して作成し、切り取って身につけ、低血糖や糖尿病昏睡などで万一意識を失うような事態に到った場合にそなえる。
9.コントロール等に影響を与える要因について
現地での白己管理の参考として、コントロールや治療に影響を与える諸要因を表1に示した。